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zoom RSS 宗教(そのニ) 『よりよい社会へ』より

<<   作成日時 : 2009/10/19 21:44   >>

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工事中  よそのブログにお邪魔にいくのはしばし控えて、実践倫理宏正会の教えなどを打ってみます。写経みたいなものでしょうか。(宗教ではありませんが)


 実践倫理宏正会は宗教かということで内外の見方が異なります。
『よりよい社会へ 実践倫理講座地の巻』から、宗教について説明した文を引用します。
全部で三講に分かれます。

(引用開始)
第22講 宗教(そのニ)

 世界の各地で、異なる宗教を持つ人々の間での紛争が続いています。人々を仕合わせにするはずの宗教が、なぜ、かくも多くの涙を流させるのでしょうか。宗教の負の側面について考えます。

 現代人と宗教

 現代人はもはや神を必要としなくなったのかというと、そうではありません、重病人を抱えた家族は、医者にすべてを委ねた後で「神に祈る」のです。
 「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。人にできることを尽くした後は、神にすがるしかないのです。その心情は今も昔も変わりません。科学の最先端国であるアメリカの大統領でさえ、テロとの戦いの宣言を「神のご加護あらんことを」という言葉で締めくくりました。
 近代以降、諸科学が飛躍的に発展したからといって、それは自然の摂理のほんの一部分がほのかに見えたにすぎないのです。私たちが獲得した「人間の領域」は「神の領域」に比べれば、まだまことに微少なものでしかないのです。
 では今後、科学の進展に比例して、神の領域が縮小していくかというと疑問です。社会が高度化し複雑化すればするほど、人は自然な状態から遠ざかり、生活実感が希薄になって、自分の存在の意味を見失います。そして、そうしたストレスや不安、生き甲斐の喪失や孤独感などからの救いを宗教に求めることになるからです。
 人間が弱い者、悩む者、命に限りある者であるかぎり、人は神なしには生き難いといえそうです。
 ちなみに、インターネットで世界をかけむぐって話題となった『世界がもし100人の村だったら』には、こう書かれています。
 世界が百人の村だったら、「33人がキリスト教、19人がイスラム教、13人がヒンドゥー教、6人が仏教を信じています。5人は、木や石など、すべての自然に霊魂があると信じています。24人は、ほかのさまざまな宗教を信じているか、あるいはなにも信じていません」。

 宗教の負の側面

 全講で、実践倫理の考え方からすると、宗教には困ったマイナスの側面とすぐれたプラスの側面があると言いましたが、まず、その前者、宗教のマイナス面について考えます。それは一言で言えば、「唯一絶対」という考え方、つまり、ただ一つの神だけが正しいという考え方によるものです。
 この「唯一絶対」という考え方が、どんなに困ったことであるかを暗示する有名な実験があります。猫は生後まもなく、視覚をつかさどる脳の一部が完成するのだそうです。そのため、その時期の猫を縦の線だけのを描いた筒の中で育てると、やがて、その猫は縦の線だけを見分けるようになって、横に差し出された棒などは認めることができなくるなるというのです。
 反対に横の線の筒の中で育てれば、縦の線が見えなくなります。縦の線、あるいは横の線だけが「唯一絶対」の存在になってしまったのです。
 こうした偏った刷り込みによって、認識に欠陥が生じるという現象は、猫の場合に限ったことではありません。私たち人間の場合にも、よく似た例はたくさんあります。
 たとえば、特定の社会状況を共有し世代に通用するものの見方や考え方というものがあります。戦争体験の有無による世代間の意識の違いなどはその典型です。
 あるいはまた、一つの主義しか認めない独裁的な社会で教育を受けた人のほとんどが、みな同じ断定的な発想をします。およそ他の意見、別の側面からのものの見方を理解することができません。「唯一絶対」の考え方だけが断定的に刷り込まれているために、それ以外のものの見方を認識する能力を失ってしまっているのです。
 この現象は特殊な社会だけにあるのではありません。どんな社会にあっても、特定の主義に頑なに信奉する人たちには、事実を事実として見られない傾向があります。現実を特定の主義というスクリーンを通して見るために、見えなくなってしまう部分があるのです。
 そして、困ったことに、この「唯一絶対」という暗い側面が宗教において最も顕著なのです。
 古来、人間は仕合わせに生きるための拠り所を神に求めてきました。ところが、この神の名による仕合わせにも大きな落とし穴があったのです。それは神が「唯一絶対的な存在」だという大前提です。「絶対」とは、比較対照するものがない、ただ一つしか存在しないということです。
 しかし、現実には、これこそが絶対に唯一の神だと信じている複数の集団が同時に存在しているから困ったことになるのです。自分たちの信ずる神様が「唯一絶対」なのですから、ほかの神様は全部間違いだということになります。当然、間違いとされたほうは怒り、争いとなります。
 こうして、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの「唯一絶対」の神を奉ずる集団同士の抗争や戦争が繰り返されてきたのです。
 そもそもユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、大本のところは同じ神様だったらしいのですが、もはやそんなことは問題になりません。長い間の確執で四分五裂し、もつれにもつれてしまったからです。
 「唯一絶対」による抗争は、異なる宗教同士の間ばかりではありません。同じ宗教の中でも、教義の解釈をめぐる対立が起こり、分派ができて、戦争や虐殺にまで行き着くこともしばしばでした。キリスト教における、カトリックとプロテスタントの宗教戦争などはその代表例です。
 しかも、これらの宗教がからむ紛争の当事者たちは、とりわけ意思堅固な人たちだから困るのです。なぜなら、自分たちの神を信じきっている狂信的な人たちだからです。当然、主張は平行線をたどり、戦争は長引き、相手を抹殺し尽くそうとする悲惨なものとなりがちです。
 なかでも厄介なのが、この「唯一絶対」を教条的に突き詰めて、他の存在を許さない「原理主義」者の存在です。その偏狭な排他性は、人類が共存していくうえで大きな障害になっています。それは、万人の仕合わせを目指す実践倫理とは最も遠い、傲慢な考え方です。
 ではなぜ、そうした原理主義が出てくるのでしょうか。
 「唯一絶対」の理屈(それが宗教の教義であろうが、イデオロギーであろうが)を信じて一致団結した集団ほど強いものはなく、自らの思いを貫徹しようとする指導者たちにとっては、最も効率的で都合のいい集団だからです。
 しかし幸いなことに、原理主義で統制された体制が長く続いたためしはありません。人間は、生活から精神まで画一的に非人間的な体制には、ついには絶えられなくなるのが自然だからです。
 ナチス・ドイツも、軍国主義の日本も、ソ連や東欧の社会主義国家も、それらはたった一つの考え方しか許さない原理主義の国家でしたが、時の勢いを失ったとき、いずれも崩壊せざるをえませんでした。
 ここで誤解しないでいただきたいことがあります。宗教すべてが「唯一絶対」派だというのではないことです。まして、すべての宗教が教条主義的で排他的な「原理主義」だなどというのではありません。
 たとえば、古代ギリシャや古代ローマの人々は多くの神々を祀りました。多神教ですから、容易に異邦の神も受け容れて、自分たちの神にしてしまいました。神々が絶対的な服従を求めることもありませんでした。まして日本は八百万の神々の国でいたから、「唯一絶対」とは無縁でした。
 では、一神教の場合はどうでしょう。
 ユダヤの神は、有名な十戒で「我は汝の神、唯一にして全能の神なり。我以外の如何なるものも神とすべからず」「我は嫉妬深き神なれば、我を憎む者には子々孫々まで罪を問い、我を愛し、我が戒めを守る者には千代までの恵みを与えん」(『旧約聖書』出エジプト記)と不寛容な「唯一絶対」の神であることを宣言しました。
 これに対して、すべての人の救済を目指したキリストは、「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(『新約聖書』マタイ伝)と寛容を説きました。「敵」とは異教の民であったはずです。
 また、それから六百年後に生まれたイスラム教も、交易の盛んな社会を背景にして生まれたために、当初から排他性が薄く、他の宗教との共生の立場をとりました。
 しかし、集団には世俗的な勢力争いはつきものです。キリスト教でもイスラム教でも、さまざまな教義の解釈や分派が生まれ、排他的で不寛容な教派や戦闘的な原理主義を奉ずる集団も発生します。それは、ある意味では「唯一絶対」の神が持つ宿命だったのかもしれません。

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