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zoom RSS 宗教(その三) 『よりよい社会へ』より

<<   作成日時 : 2009/11/05 07:12   >>

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工事中  よそのブログにお邪魔にいくのはしばし控えて、実践倫理宏正会の教えなどを打ってみます。写経みたいなものでしょうか。(宗教ではありませんが)


 実践倫理宏正会は宗教かということで内外の見方が異なります。
『よりよい社会へ 実践倫理講座地の巻』から、宗教について説明した文を引用します。
全部で三講に分かれます。

(引用開始)
第23講 宗教(その三)

 現代科学の粋を集めた宇宙船に乗って地球を見た宇宙飛行士の多くが、その後の人生を宗教活動に捧げています。
 孫悟空が雲に乗って地の果てまで飛んだと思ったら、お釈迦様の掌の中だったと知る話と似ています。
 宇宙を貫く「大自然の摂理」と「神」との関係を見据えます。

宗教は必要か
 
 前講では、宗教の持つ宿命的ともいえる「負の側面」、排他性について見てきました。しかし、そうした負の側面は、宗教が絶対に避けられない宿命なのかというと、違います。
 神が人を愛し、宗教が万人の救済を究極の目標とするならば、排他的であることは、むしろ神の本質に反します。非人間的で偏狭な教義や原理は、「聖なるもの」とはほど遠いものであり、それは一部の人々が世俗的な権勢欲や物欲を満足させるためにつくった、自分たちに都合のいい単なる決め事にすぎません。
 ただ、神の持つ「唯一絶対」性は、そうした排他性や非人間性を生み出しやすいとはいえるでしょう。それはちょうど、縦の線だけが描かれた筒の中で育てられた猫が視野の偏向から抜け出せないのと同じです。実践倫理のように、縦の線も横の線も斜めの線もある現実を、あるがままに認め、より善い道を求めることが難しいからです。それなら、宗教は否定されるべきものかというと。それも違います。
 現代社会には、宗教を持たない人、神を否定する人がたくさんいます。そうした、人間を超えたものを信じない人には、自分以上の存在を認めないという傾向があります。もし彼が、自分は何でもできるし、何をしても許されると思い込んでいるとしたら、それは恐ろしいことです。
 なぜなら、不完全な人間が自分だけを信じて行動するのですから、どこへ行き着くか皆目見当がつかないからです。しかも、彼が人の仕合わせを思わず、自分だけの仕合わせを思っているとしたら、それは非常に危ない生き方に思われます。自分の欲望のほかに突き動かすものがない人は、大黒柱を欠いた家のように頼りなく、また、危険な存在でもあります。
 人間は何でもできるし、何をしてもよい、と思い込んでいる人を「神をも恐れぬ人」といいます。この神をも恐れぬ人々の行動が、これまで社会に大きな禍根を残してきました。自分の利益のためなら何をしても憚らない人々が、人類を何度でも滅亡させるほどの核兵器を作り出し、地球規模で公害をまき散らし、オゾン層を破壊し、戦争で無数の生命を奪ってきたのです。
 今、改めて宗教が取り沙汰されるようになったのは、二十世紀を通じて、神をも恐れぬ人間の営為が相当に際どいところまで地球と人間を追い詰めてしまったからに違いありません。
 人間とは自らをも滅ぼしかねない愚かしくも弱い存在なのです。今こそ、私たちは謙虚さを取り戻し、人知を超えたものを畏れ、行いを正し、人事を尽くして万人の共生と仕合わせを目指さなくては、地球も人類も滅びるほかはないのです。
 その意味で、宗教は人間にとって有用なのです。人が正しく生きるために、神を信じることはよいことなのです。
 しかし、神の名とその教義は一つではないということも忘れてはいけません。人間一人ひとりが自分たちの仕合わせのために、また万人の仕合わせのために、いちばん親しい神の名を呼べばいいのです。すべての宗教が万人の仕合わせを実現しようとするならば、一宗教、一宗派の絶対正義を言ってはならないのです。宗教もまた共存しなくてはならないのです。
 とりわけ、対立や戦争に神の名を持ちだしてはいけません。前講で、「人間の領域」と「神の領域」ということを言いました。対立や戦争がこの人間の「領域」にとどまるかぎり、どのような対立も人事を尽くせば解決できます。しかし、それが人間を超えた「神の領域」に属したとき、もはや人間では解決できなくなってしまうからです。
 たとえば、パレスチナでの争いを宗教対立ととらえる人たちがいます。しかし本来、パレスチナ問題とは、第一次世界大戦の戦後処理と第二次世界大戦に際しての戦費調達のために結ばれた密約から生じた土地問題なのです。中東のなかでは豊かな土地に住んでいた人々が、ある日突然、故郷を追い出された。彼らは土地を取り戻そうとし、土地を得た側は取り戻されまいとする。それがこの問題の本質なのです。両者はたまたま異なる宗教を持っていたにすぎないのです。
 もし、パレスチナ問題が純粋に土地問題として扱われていたなら、解決の方法もあったのではないかと思われます。しかし、その対立に「唯一絶対」の神の名が持ち出されたとき、もう、どちらか一方が滅ぶまで解決はできなくなってしまうのです。神の名を収め、問題の本質に立ち返って人事を尽くす。それ以外に解決の道筋はないのです。
 宗教間の対立を煽ろうとする者とは、人間の仕合わせを奪う者、人間の生存そのものを脅かす者といってよいでしょう。そしてもし、ある宗教がそうした偏頗な方向、他の宗教の存在を否定する方向へ向かうとしたら、万人の仕合わせのために、その神は死すべきでしょう。
 あらゆる対立や紛争において、人は万人の仕合わせのために「人事を尽くす」道を選ぶべきなのです。間違っても神をそこに持ち込んではならないのです。

実践倫理と宗教の関係

 人間は絶対ではありません。今この瞬間に何が起ころうとしているのか、明日はどうなるのか。日が昇り星がめぐり、万物が生々流転するのはなぜなのか。人間には何一つ確かなことはわからないのです。そのため、人は誰でも人知を超えたもの、私たちを今あるようにあらしめるもの、宇宙と人間の運命をつかさどる不可知の力が確かにあると感じてきたのです。その不可知の力のことを実践倫理では「大自然の摂理」と呼びます。
 人々はこの力を「聖なるもの」として敬い、多くの人がそこに「神」を見たのです。そうした思いは「人間にとって自然なこと」でした。実践倫理が宗教を肯定するのはそのためです。
 しかし、「大自然の摂理」と「神」は同じではありません。
 「神」は意志を持ってすべてを支配し、服従を要求します。その意志に背けば、罰します。これに対して「大自然の摂理」は宇宙を貫徹する原理ではあっても、「神」のような意志は持たず、命じもしません。すべての存在を「大肯定」するだけです。ただ、実践倫理では「大自然の摂理」のままに生きたほうが、人は仕合わせになれるという真理を説くだけです。
 また、実践倫理は現実世界に生きる人間の仕合わせのための知恵の体系ですから、宗教のように死後の世界について語ることもありません。
 実践倫理では、宗教の教義と活動が「大自然の摂理」にそったものであるかぎり、これを支持します。その一部が「大自然の摂理」にそったものであれば、その一部を認めます。しかし、その宗教を「絶対」だとはいたしません。「人間が生んだ」宗教が「絶対」ではありえないからです。
 それに対して「大自然の摂理」は「人間を生んだ」ものです。私たちを今あるようにあらしめているものです。それゆえ、人間を超越した「絶対的なもの」です。いっさいの人為を超越したものですから、宗教もその原理の下にあるのです。
 日本においては、こうした「大自然の摂理」と「神々」の関係は、ごく自然のうちに予感されていたように思います。宗教を含めて、あらゆる人為が「大自然の摂理」の掌の上に乗せられていると知っていたから、あらゆる神々を受け容れる土壌があったのではないか、と思われるのです。
 この日本人の心情を象徴的に表している歌があります。
 「なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」
 西行法師が伊勢で詠んだ歌です。何の神様が祀られているかさえ問題にならないのです。ただその場に宗教を超えた聖なるもの、大自然の摂理ともいうべきものを感じ、ひざまずき、涙を流しているだけなのです。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
 上記の記事中で「現代科学の粋を集めた宇宙船に乗って地球を見た宇宙飛行士の多くが、その後の人生を宗教活動に捧げています。」について、「いや夫」の解釈は、会長先生とは全く違います。
 私は、「人類の月面着陸はなかっただろう論」に賛同する者です。おそらく、アポロの宇宙飛行士は、月面着陸という夢の実現のために人生の大半を捧げたのにも関わらず、月面に降り立つことができなかったのでしょう。さらには、そのことを誰にも話すことができず、英雄として人々から讃えられていることに、大いなる葛藤があるのだと思います。その贖罪の意味で宗教活動に残りの人生を捧げているのだといや夫は予想しています。
いや夫
2009/11/09 22:36

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